弁護士 菅野芳人
経歴
平成元年4月 弁護士登録
平成2年5月 菅野・渡辺法律事務所 開設
平成16年1月 けやき法律事務所 改称
所属・職歴
過去の主要な役職
日本弁護士連合会 自由と正義の編集委員
日本弁護士連合会 司法制度調査会副委員長
仙台弁護士会 副会長
現在の主要な役職
仙台市開発審査会委員
日弁連財務委員会委員
原子力損害賠償紛争解決センター委員 など
弁護士活動への想い
このホームページをご覧のみなさま、はじめまして、こんにちは。
弁護士というとお堅い感じのイメージがあるかもしれませんが、決してそんなことはありません。
私自身小さいころから決していい子で育ったわけではないですし、むしろみなさまと同じような幼少期を過ごしていたと思います。
私は福島県郡山市で生まれ、父親の転勤の関係で、小学生・中学生時代は会津若松市で過ごし、福島市で高校時代を過ごしました。
現在のように情報が瞬時に入る時代ではありませんから、受験とか、塾とかという言葉も知らず、天真爛漫に過ごしていました。進路や人生とかいう難しいことを考えたこともなく、東京という都会に行きたいという気持ちだけで大学に入り、上京しました。
多分ほかの大多数の学生も同じだったと思いますが、学生時代仕送りだけでは生活できませんでしたので、喫茶店やコーヒー専門店、スーパーなどでアルバイトをして学校に通いました。
どうしてこれらのところをアルバイト先に選んだかというと、どこもみんな、まかないといって、時間によって朝ごはんや昼ごはん、夜ごはんなどがついていたからです。
おふくろの作ってくれる食事も好きでしたが、まかないは短時間で食べられる今まで食べたことのない感激の味ばかりでした。
そしてこれらのアルバイト先で得た最大の財産は一緒に働いた仲間たちでした。年も違うし、環境も違い、価値観も様々でしたが、みんな親切でユーモアがあり、おもしろい人たちばかりでした。このアルバイト先での経験はその後の長い人生にとって有益なものになりました。
このような楽しい時間もあっという間に過ぎて就職の時期がやってきました。特にこの仕事をしたいという希望もなく、なんとなく受けた公務員の試験に合格してしまい、大学卒業と同時に公務員になりました。
しかし、毎日毎日が断片的な仕事で、当時はそれ自体が大事なのだということもわからずに、ただただやめることばかり考えていました。ここで初めて自分の人生を真剣に考え始めたのです。
そして、出した結論が司法試験の受験でした。当時は終身雇用制が当たり前の時代でしたから、リタイア組にはこの選択肢しかなかったのですが、当時の司法試験は、合格率が1パーセント,2パーセントの難関の試験であり、今考えると、なんとも無謀な選択でした。
しかし、いい受験仲間にも恵まれ、法律事務所に勤務しながら、4回目の受験で何とか合格することができました。
ちなみに、当時の合格者には、公務員、銀行、新聞記者を辞めた方など多彩な人材が多く、また合格までに多くの時間を費やした苦労人の方も大勢いて、このような多様な人材が在野法曹である弁護士のいろいろな分野における活動を支えていたのではないかと思います。
その後2年間の司法修習と、勤務弁護士を経て、司法修習時代の同期の弁護士と一緒に平成2年5月に自分の事務所を持ちました。不安もありましたが、一人ひとりの依頼者に寄り添い、依頼者ができるだけ話しやすいように心がけて、一つひとつの事件を大事に処理してきました。以来30年以上にわたりこの気持ちだけは忘れないようにしてきたつもりです。
開業して間もないころでしたが、会社の代表者をしていたご主人が借金を苦にして自死し、その奥様が相談に来られ破産手続で対応しました。奥さまもまだ若く重病を患っていて、中学生のお子さんを残して、破産の手続きが終了した直後に亡くなられたという事案がありました。
本当にお気の毒でお子さんにかける言葉すら当時は見当たらなかったのですが、その奥様が事件の処理中に「弁護士の敷居がもっと低いとわかっていれば、主人は亡くならずに済んだかもしれない」とちらりと漏らしたことがありました。この言葉は30年たった今も忘れることはできず、相談しやすさという私の弁護士活動の礎になっています。
開業して、破産、離婚、遺産分割、再生、会社更生、多重債務などほとんどすべての事件をがむしゃらにやってきた私でしたが、交通事故の案件に力を入れるきっかけとなった事件があります。
ひとつは、高速道路で自損事故を起こして車を降り路肩に避難していた被害者が避難中に2台のトラックにひかれて死亡したという事案です。自賠責保険会社2社から死亡保険金を回収後、自分の入っていた保険に搭乗者傷害保険金を請求したのですが、保険会社は簡単にいうと「勝手に車から降りてはねられたのだから、搭乗中とはいえない」というのです。
しかし、常識で考えれば、高速道路の真ん中で止まってしまった車の中にいたら危険ですから避難しようとするのは当然であり、私はこのような主張をし、支払いをしない保険会社の言い分はおかしいとし、提訴しました。
1審は私の主張が認められ勝訴しましたが、控訴審はまったく正反対の判断をしました。そこで、ご遺族と相談しすぐに上告しました。上告審である最高裁判所はご遺族の言い分を認め、ご遺族勝訴の判決を下したわけですが、この当然の結論を得るまで長い時間が経過しました。保険会社の対応に怒りを覚えると同時に、巨大な組織である保険会社には負けられないと思いました。そして、この判決を機に、全国から相談が寄せられるようになりました。
もう一つは、交通事故にあった被害者の女性に対する提示額があまりにも低かったため提訴した事案でしたが、この事案に対する保険会社の対応もひどいものでした。
痛くて通院している被害者に対し、「車を運転して通院しているのだから痛みなどたいしたことがない」とか、自営業者だから休んだという証明が難しいのに対し、「警備会社の事務所の入退室がないという証明では足りない」などとすべてにおいて無理難題を吹きかけ、被害者の女性はこの保険会社の心ない対応に気持ちが折れそうになっていました。
この時、私は交通事故の被害者の心に寄り添ってあげなければならないと決意しました。また、このころ相談を受けていた人たちの中には後遺症の認定がなされずに憤慨している方々も多くいて、後遺障害の申請の段階から弁護士が関与しなければ真の救済にはならないと確信するようになりました。
平成24年ころから交通事故の事件の相談を年間200件以上受けるようになりました。数多くの事件に関与するようになりましたが、保険会社の横暴と、これに追随する裁判所の姿勢は近年ますます顕著になっているような気がします。
例えば、早期に治療費の支払いを打ち切る姿勢は、以前は特定の保険会社に限定されていたのですが、最近は裁判所が治療期間を短く認定する傾向にあることから,多くの保険会社において打ち切りの時期が早くなってきたような気がします。
また、整骨院での治療に対し、その必要性・有用性は社会的にある程度の認知を得ているように思いますが、裁判になると,保険会社は自らが支払いを続けてきたにもかかわらず,整骨院の治療は必要がなかったとか,あるいは有効でなかったなどといって治療費として認めないとの対応をしてきます。最近の裁判所の姿勢は、保険会社が支払っていた整骨院の治療費までも損害として否定する傾向にあり、ますます保険会社を増長させているように思います。
しかし、私たち被害者側の弁護士はこれに屈することはできません。屈してしまったら、保険会社が交通事故の被害者に対し打ち切りや低額な補償,心ない言葉などの更なる被害や苦痛を容認することになってしまうからです。
私は今後も相談しやすさと,交通事故被害者など社会的弱者の救済のため頑張っていこうと思っています。相談したいことがございましたら,どんな些細なことでもかまいませんので,お電話等いただければ幸いです。